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あまりに原稿が売れない作家の郎屋無鉄砲が、唯一のとりえの腕っ節で、万引きハンターとして最底辺のストリート生活を送る。愛と暴力のイエロー・トラッシュ日記。ニックネームはジュジュです。


by junpin-juck
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「謎とき村上春樹」と残念な人。もしくは今日のトンデモさん。

 石原千秋の「謎とき 村上春樹」を読んだ。
 衝撃だった。これによって、 村上春樹の大筋が理解できてしまったからだ。
 以前、自分は理解できない作家に対して大いなる敬意を抱きがちだと描いたが、まさに春樹こそ、その、分からない作家の代表だった。
 私が春樹を初めて読んだのは、本当に物凄く昔のことだ。「カンガルー日和」が単行本で出たころのことだったから。
 まだ小学生の私は、活字に餓えていた子供で、10になる頃には当用漢字はあらかた読めていた。だから大人の本だとは思っても、カンガルーが出てくる奇妙なタイトルの大きな本は、抵抗なく手に取れるものだった。
 そして当然、まったく意味が分からなかった。分からなかったけど、その文体はきっと、生理的なリズムで子供にも快を与えるものだったのだろう。とても印象に残った。
 その後、いくつかのCMやドラマ、FMラジオのナレーションなど、ところどころに春樹ワナビーの色を感じるたび、世の中のそういう側面を身近に感じ続けた。文字通りの意味で、春樹チルドレンだったわけだ。
 そのせいで、春樹と言うのはわからなくていい作家、という刷り込みが長い間ほとんど違和感なく体内になじみ続けていた。
 疑問を無くしたわけじゃない。年上の従兄弟が春樹が好きだといえば意味を尋ねてみたり、ある種の解説本やムックを見かければ、手を取ってみたりした。
 その結果わかったのは、春樹は誰にも分からない、ということだった。
 某、「ぼくたちの好きな~」シリーズのムックは、セルアウト丸出しの一切中身の無いマスを生めただけの原稿をつぎはぎしただけだったし、分からなくていいんだ、という従兄弟の意見もどこか釈然としなかった。
 あんまりにもそんな時間が長かったものだから、少しづつ自分にも文章力やら読解力みたいな物がついてきて、不意に「納屋を焼く」が理解できてしまった時には驚愕した。
 そう、あまりにストンと、全てがそこに描いてあることがわかってしまったのだ。「浮き彫り」と呼ばれてる手法だった。描かないことで、そこに書かれていないことを真実として浮かび挙げる手法に過ぎなかったのだ。
 自分が散々やってから、初めてそのことが理解できた。
 もっと簡単に、整理して、ただ一つ一つの文章を読めば、全ては理解できる範疇のことだったのだ。
 そうすると、驚くほど春樹が明確に物事を書いていたことがわかってきた。何も不思議なことは無い。全てはそこに描写されているのだ。むしろ、沢山の人たちが研究本を出して分かりもしないくせに文字を換金してきたことに反省を促したいくらいだ。特に「ぼくたちの好きななんちゃら」。好きなだけでお金作っちゃダメだぞ。
 石原千秋の見方もまた、そういう、書いてある当たり前のことを見事に明文化してくれる良著だった。石原によると同様の見方はすでに平野芳信、斉藤美奈子の両氏によって発表されているようで、それらの視点が一部の春樹読みだけにとっての、都市伝説レベルでの広まり方しかしてないのが不思議であると描かれている。恐らくは小学生の私が感じたのと同じ、わからなくても違和感のないグルーヴがそうさせているものだろう。
 それはよしとして、分からない物を分からないままにしておくのはまだしも、ぼくたちのなんちゃらみたいなワックどもが分かりもしないくせにウソを垂れ流して巷間に広めるのは害悪ではなかろうか?
 その中で、特にひどいものをここであげてみたい。石川忠司氏の「現代小説のレッスン」だ。
 著者の石川さんというのは、文学をやってる人で、いくつも評論を書いているらしい。
 彼の文章は実にグルーヴィで、示唆に富んでいて、見識の深さと知識の広さがうかがえる。
 が、やってまってるのだ。
 春樹のデビュー作「風の歌を聞け」の解説に置いて、酔いつぶれた小指の無い女性が目を覚まし、語り手の「ぼく」ともども裸でいるのに気付くシーンの解説においてだ。
 石川版の「正解」では、その女性が「ぼく」の親友「鼠」の子供を孕んでおり、二人の間に入った「ぼく」自身もかつて恋人が妊娠した後、自殺したという経験をしたばかりであり、どうにか同じことを繰り返さないように苦悶しているというシーンだ。
 実に痛ましい、まさに春樹グルーヴ。薄闇のなか、彼女の乳房やおなかをみて、ぼくがどれだけの気持ちになったことだろうかと思う。
 同じシーンに対して、石川さんの解説はこうだ。
村か春樹の「ぼく」は初めて登場したときから嘘つきでダーティな雰囲気たっぷりだっただ。(中略)「ぼく」の発言は決して真に受けてはいけない。(中略)女の子の意識が無いことに、こっそりと「ぼく」が彼女をヤッたのは誰がみたって明らかではないか

 もはや解説でもなんでもない。見たまんまである。石川氏の解説というのは終始この調子で、「文学は全部嘘っぱちで真に受けてはいけない。描かれていることなど、当事者は一切感じていない。生来のなんとない感傷に、後付でむりやり出来事を当てはめているだけだ」と言うスタンスである。
 それって、単に自分と他人の区別がついてないだけなんじゃ……。
 少なくとも、まともに文章を読んでないのみならず、単なるゲスさを露呈しただけってのはどうなんだろう……。
 今週の残念賞、石川忠司氏に進呈したい。
 世の皆様も、このような愚を避けるようにご注意されたし。もちろん私も。
by junpin-juck | 2007-12-25 13:23 | 小説